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「なにも決めずに書く」という試み

 

―― このたびは最新刊『□』(シカク)の刊行、おめでとうございます。

 

阿部和重(以下、阿部) ありがとうございます。

 

―― 本作は阿部さんにとって初めての連作短編であり、ホラーサスペンスとも呼べる内容になっています。それ以外の部分でも、これまでの作品とは違った書き方にチャレンジされたそうですね。

 

阿部 今作に限らず、僕はいつも作品単位で自分なりの課題を設定して、それを乗り越えつつ書いていく、という作業をくり返してきました。作品の主題とは別に、ひとりの作家として自分が乗り越えるべきハードル、主には技術的なところでの課題です。

それで今回、『□』という連作短編で設定したのは「なにも決めずに書く」という課題でした。

 

―― なにも決めずに書く?

 

阿部 基本的に、僕はあらかじめ作品の全体像が描かれた設計図を用意してから原稿に向かうスタイルを採っています。というのも、『シンセミア』や『ピストルズ』のような1000枚を超える大長編は、登場人物も多い群像劇ですし、物語とは別のところで設定していた技術的な「課題」もたくさんあり、事前に詳細な設計図を組み立てておかないと書き進めるのが難しいんです。また、それ以外の長編や中編、あるいは短編小説でも、だいたいいつも先に全体像を考えた上で書いてきました。

こうした自分なりの執筆スタイルが固定されている状態というのは、作家にとって必ずしも悪いことではない。けれども、何年も同じことをくりかえしていると、やはりその都度新しいスタイルを試してみたくなる。というわけで今回は、あえて設計図をつくらず、なにも決めずに書き進めてみることにしたんです。

 

―― なにかきっかけのようなものがあったのでしょうか?

 

阿部 最大のきっかけは『ピストルズ』という長編を書き上げたことかもしれません。あの作品は自作の中ではもっとも緻密に、細部の細部に至るまでコントロールして、しすぎるくらいに作り込んで書き上げたのですが、その出来栄えにも非常に満足できるものには仕上げられた。表現形式や物語内容はもちろん、それこそ単行本の表紙写真から本文のフォントまで、あらかじめ立てたコンセプトをもとに完全にコントロールして作り上げました。

そういう過度にコンセプチュアルでコントロールし尽くした仕事を終えてみると、今度は思いっきりシンプルな方向に進みたくなったんですね。実際、『ピストルズ』の次作にあたる『クエーサーと13番目の柱』は、かなりシンプルなつくりの作品になっています。

 

―― なるほど、そこから『□』につながっていったわけですね。

 

阿部 いえ、『クエーサーと13番目の柱』は書き下ろし作品でしたから刊行が早かったのですが、実際の執筆時期は『□』とほぼ重なっているんです。こちらはリトルモアの『真夜中』という季刊誌で連載していた作品ですので。

それで『□』においては、ただシンプルにするだけではなく、物語の全体像やキャラクター、またそこでなにを語るか、なにを描くかといった主題のところまで、なにも決めずに書こうと考えました。

 

―― なぜそこまで極端な方向に振れたのでしょうか。

 

阿部 僕は来年でデビュー二〇周年になるのですが、いつの間にかそんなに経ってしまって、ここらで小説を書く、という行為に対する初期衝動だけの状態に立ち返ってみたくなったんですね。設計図を抜きに、野蛮な初期衝動だけでどこまでたどり着けるか試してみたかった。

もちろん雑誌連載ですから、タイトルだけは先に考えなければなりません。でも、『□』というタイトル以外は、できるだけ白紙に近い状態で原稿に向かいました。自動筆記とまではいかないにせよ、書きながら考え、書きながら組み立てるという感じです。

 

―― それにしても『□』というタイトルは非常に示唆的で、謎めいています。なんの設計図もないところから、どうやってこのタイトルが出てきたのでしょう?

 

阿部 まず、今作には「季刊誌に連載する全4回の連作短編」という連載上の枠組みがありました。それで単純に「せっかく季刊誌に連載するのだから、各エピソードは春、夏、秋、冬の流れにしよう」と考え——春夏秋冬形式は担当編集者の方のご要望でもあったんですが——全4回の「4」という数字から『□』のタイトルが浮かんできました。出来上がってみれば謎めいたタイトルのようですが、着想自体は非常にシンプルなんですよ。

 

―― では、『□』というタイトルだけが先にあって、そこから物語が生まれていったイメージなのでしょうか?

 

阿部 そうですね。「□」という記号に潜在する可能性を自分なりに探ってみたというのが、この小説の正しい性格なのだと思います。できるだけ決め事を設けず、「□」という記号を起点にイメージを膨らませていきました。

 

―― とはいえ、ひとりの読者として読んだとき、今作はとても設計図なしに書いたとは思えないクオリティです。

 

阿部 もともと僕は、小説なんてある程度の国語教育を受けた人間なら誰にでも書けるものだと思っています。そして自由な発想にしたって、じつは日常生活の中で誰もがやっていることで、決して小説家の専売特許ではありません。

ただ難しいのは、その自由な発想を言葉として書きつけていく中で、どれくらい読むに耐えうるものとして制御できるかなんですね。そこに技術というものが生まれ、たとえば設計図のようなものが必要になってくる。プロの小説家に問われているのは、想像力よりもそれをコントロールする技術です。

その意味でいうと今回の『□』では、あらかじめ設計図をつくっていなかった分、物語はどこまででも広がっていきかねなかった。そうやって膨張していくイメージをどれだけ制御していけるかが、もっとも苦心した点だったように思います。

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フィクションにおけるリアリズムとは

 

―― なるほど。先ほど初期衝動というお話がありましたが、今回の『□』で描いてみたいモチーフなどはあったのでしょうか?

 

阿部 なにも決めないと言いながら、ここ10年くらい自分の裏テーマのようになっている「監禁と拷問」というモチーフについては、今作でも描きたいと思っていました。このあたりは、もっともらしい理屈をつけて語ることもできるのですが、とにかく監禁と拷問への執着があるんですね。最近はそんな話ばかり書いている気がします(笑)。

 

―― たしかに今作でも、かなり凄惨な監禁や拷問の場面が登場します。ただ、これは阿部さんの作品全般にいえる特徴だと思いますが、そうした凄惨な拷問シーンでも、どこかスラップスティック的なおかしみを持っていますよね。どんなに凄惨な虐殺が描かれていても、不謹慎な滑稽さがあるというか。

 

阿部 ああ、そうですね。僕自身が最初にその感覚に気づいたのは、サム・ライミ監督のデビュー作『死霊のはらわた』(81年)でした。あれはホラー映画をマニアがとことん作り込んだ結果ジャンルを超えちゃったような作品ですが、あまりにも真剣にジャンルの規則に忠実たろうとすることによって極端なパロディー化が進み、恐ろしいはずの場面が笑える場面へと異化されている。日本公開より先に輸入ビデオで観たのか、17歳で上京してひとり暮らしをはじめたときに劇場で観たのだったか、定かでありませんが、とにかく凄く衝撃を受けました。その方向性は二作目になるといっそう強まるのですが、とにかく、ホラー映画は怖いものだという先入観が払拭されるどころか、ジャンル性の徹底によってばかばかしさが際立って笑えてしまう(笑)。そこにリアリズムがあるなと、今ならはっきりそう言語化できます。

 

―― リアリズムがある?

 

阿部 映画はどこまでも「つくりもの」であって、そのつくりものの「つくりもの性」を極限まで露呈させるからこそ、フィクションとしてのリアリズムが出てくるわけです。そのリアリズムとはつまり、実質上こうでしかあり得ないという限界点をあらわにしてしまう現実的な視点のことです。フィクションはどんなに現実に似ていてもフィクションでしかあり得ない。そのことを、フィクション(夢)をとことん作り込むことによってかえって白日のもとにさらしてしまうのが、映画の素晴らしさだと思います。僕にとって『死霊のはらわた』は、そのことを気づかせてくれた非常に大きな映画でした。あのときの感覚は、自分の創作にも反映されているはずだと思います。ですから先ほどのご指摘は、かなり本質的なところに関わってくる話です。

 

―― 具体的に、どのような関わりがあるのでしょうか?

 

阿部 たとえば、僕の小説について「登場人物に感情移入しにくい」とおっしゃる方がいます。これはキャラクターの設定にも原因があるのですが、それ以上に書き方の部分が大きいんですね。

これはフィクションというまやかし物に携わるひとりの作家としての倫理観なのですが、読者を物語にどっぷりハマらせて感情移入させることに、どうしてもためらいがある。娯楽作品としての小説だったらまだ、そんなことを考える必要もないのでしょうが、いちおうは純文学を出自とする作家としては、そこは尚更に重視せざるを得ない。

 

―― 感情移入のどこにためらいを感じるのでしょう。

 

阿部 エンターテインメントと純文学の違いというものを強いて設定しなければならないとすれば、それは「物語に対する批評性」の明示度ということになるのかもしれません。少なくとも、プロの作家というのは物語がもたらす様々な影響について自覚的でなければならない立場なのではないでしょうか。その意味で、作家は自作について責任を持たなければならず、これは単なる物語にすぎませんと、作中のどこかで示さなければならないのではないかと僕は考えているのです。したがって倫理上、登場人物への感情移入が阻まれるような書き方にならざるを得ず、物語を物語として意識させることが、作家としての僕の方針となる。『死霊のはらわた』に感じたフィクションとしてのリアリズムは、そういう問題につながっているわけです。

 

―― たしかに『死霊のはらわた』といえば、阿部さんとゾンビは切っても切り離せない関係にあります。デビュー作の『アメリカの夜』も、新人賞に投稿された際の原題は『生ける屍の夜』でした。このタイトルはジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』からきているわけですよね。

 

阿部 はい。

 

―― そして今作『□』は、監禁と拷問だけでなく、カニバリスト集団の登場など、スプラッタやホラーの要素が強い作品になっています。この方向性は、当初から頭にあったものなんでしょうか?

 

阿部 いや、それはなかったんですよ。監禁と拷問については頭にあったのですが、カニバリズムについてはまったく念頭になかった。完全に書きながら出てきた設定です。最初にカニバリストが出てきたのは『夏』のエピソードですが、そもそもここでは結構エキセントリックな歯科医が登場します。

 

―― ええ、すごいキャラクターでした(笑)。

 

阿部 『夏』のエピソード自体はカーペンター版の『遊星からの物体X』が元ネタなんですが、それはともかく、あの歯科医が出てきたのは、『□』の形から口の文字が浮かんできたからなんですね。そして口からイメージを膨らませていった結果、カニバリストの存在が浮かんできた。『夏』のエピソードではただ車に轢かれるだけの役割なのですが、いったん登場させたからにはきちんと物語っておかなければならないと考え、『秋』ではカニバリスト集団を登場させました。

 阿部和重『□』刊行記念インタビュー

―― しかし、『□』というタイトルから口の形が浮かび、歯科医になって、さらにカニバリストにまでつながったというのは、すごい話ですね。

 

阿部 『□』の形だけでなく、「シカク」という音も重要でした。単行本の帯にもいくつかの語意を記していただきましたが、そんなふうに、ひとつの音からさまざまなシカクを膨らませていきましたし、物語にもその要素が入り込んでいると思います。

 

―― まさに自由な広がりがあった。

 

阿部 いや、書きながら組み立てられたのは細部だけです。物語の大きな道筋は、かなり早い段階から見えていました。なにも決めず自由に書こうと思いながらも、職業病のように物語の設計図が浮かんでしまうし、結局は監禁や拷問を描いている。自由に振る舞おうとしたはずなのに、不自由な方向に行ってしまっている。そんな自分自身の矛盾した状況が、作品世界にも反映されている気はします。

 

人は自由になれないのか?

 

―― 矛盾といえば、今作で興味深かったのがある種異様な世界観です。死者を蘇らせるために身体のパーツを集めていく、という基本設定もそうですし、カニバリストだけでなく超能力的な力の持ち主も出てきます。

 

阿部 そうですね、この『□』では、できるかぎり実社会とは異なるルールの世界を描きたいと思っていました。

というのは、最初になにも決めずに書くと決めると、必然的に「創作における自由とはなにか?」を考えざるを得なくなる。われわれ小説家も、自由に物語を創作しているようでありながら、じつは多かれ少なかれ実社会のルールや物理法則に従って書いている。たとえば作中の登場人物は、理由もなしに赤信号を渡ることはしません。フィクションでありながら、道路交通法という実社会のルールを守っている。このように現実世界と作品世界の共有部分が多くなるほど、読者はその物語を受け入れやすくなります。

でも、本当に自由であろうとするならそんなルールに従う必要はないし、従ってはいけないのではないか、という問題意識が浮上してくる。

そこで今作では、現実世界とは遠く離れた、ここでしか通用しないルールをたくさん設けてみました。街中をカニバリストが歩いていたり、超能力が存在したり、ゲーム的に死者が蘇ったりする。しかも作中の誰もそれを驚かない。

 

―― そこが非常に不気味でした。なんの説明もないまま混沌とした世界が進展していくというか。

 

阿部 あえて説明を省いていくことで、物語のフィクション性を強調させたかったのです。これは先ほどお話しした『死霊のはらわた』に感じた、フィクションとしてのリアリズムともつながることです。

 

―― なるほど。デビュー当時からずっと持っていた問題意識が、継続発展されているわけですね。

 

阿部 やっぱり、人は自由になれないということですよ。□という四辺をぐるぐる回って、同じことをくり返している。自分自身に監禁され、拷問されている(笑)。

 

—— そう考えると『□』というタイトルはますます示唆的です。

 

阿部 たとえばタイトルを決め、登場人物の名前を決めた時点で、もうなにかしらの物語性を孕んでいるわけです。だから身を持って「なにも決めずに書く」という言葉の矛盾を知ることができたのは大きかったですね。もしも本当になにも決めずに書いたとしたら、本来はサミュエル・ベゲットの小説みたいになるはずです。登場人物がまず目覚めてベッドから起き上がる行為からして、生まれて初めての体験のように描かれなければならない。

 

―― なにも決めずに書くなど、原理的にできない。

 

阿部 それだけ人間は、あらかじめ情報を詰め込まれてしまって、物語性にまみれている。なにかしらの言葉や記号に触れた瞬間、ある種の先入観や物語が思いついてしまう。ことに小説家なんて、毎日そんなことばかりを考えている人間ですから、なにも考えずに書くことなどできない。考えないという行為の不可能性にあらためて直面したのが、最大の収穫だったのかもしれません。

もうひとつの発見としては、執筆中に自分が見聞きしたものや、ふと思いついたアイデアが、かなりストレートに反映されていったことです。その意味でいうと、自分にとっては珍しく「私」が素直に出ている作品なのかもしれない。特に、執筆に取りかかる直前に東日本大震災が起きて、しばらくの間は大阪に滞在していたのですが、『春』のエピソードはあの混乱期に書かれたものになります。

 

―― そういう背景も作品の中に表れているのですね。

 

阿部 具体的にどの部分が、と明言はできませんが、なんらかの形で反映はされていると思います。

 

―― さまざまな意味でターニングポイントになりそうな作品ですね。

 

阿部 後年振り返ったときには、そうなっているのかもしれません。連作短編という枠組み自体が初めてでしたし、初期衝動に立ち返る試みという点でも、いろいろと収穫の多い作品になりました。これまで僕の作品を読まれたことのない読者の方々にも、きっと楽しんでいただけるのではないかと期待しております。

 

―― 本日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。

 

阿部和重『□』刊行記念インタビュー